9話

成り行き上、9話を3回、最終話を4回見た。最終話は一時期2の一挙放送をイヤと言うほどAbemaで流していて、時間的にちょうど最終話ばかりを見ることになって。

何か見落としがあったかも、と思って見返したけど、ポジティブな見落としはなかった。感想がポジティブ方向へ反転することもなかった。

 

むしろ、9話の初回視聴ではお茶を横に置いた部分を見落としていて、2回目でそのシーンに気付き黒化して異次元の学校に取り残されてしまいそうなくらい心に黒さが染み渡ったことも付記しておきます。

 

 

あの場で「おうちへおかえり」と言うことは正しいと思う。目の前の存在がそれを望み、かつそれを言うことで自分が被る不利益は何も無いので、若干(誇張)思いやりに欠ける朴念仁の選択として理に適っている。

でも、だからといって「おうちにおかえり」だけ言わせるのは創作としてあり得ない。「左手を胸の高さに、右手を上げて王神の姿を真似て下さい。その御姿さえ拝むことが叶えば、それだけで私は幸せです!」「はい(ポーズ)」「(感動)」「(完)」って、そんなのあるか。自分の為に傷付いたことを労わるのでも、自分はヒトだけど待ち人ではないことでも、なんでもいい。いや、朴念仁にそんな気の利いたことを望むのは酷だけど、それでも自分の言葉で何か足した上でその言葉を言うか、その言葉を言わせる流れを作ってカウンターを設けるか。そうして初めて、絵を作り台詞を書いて人が演じる、創作の意味がある。こうされると幸せ、と言うのをただなぞってクライマックスだというなら、アダルトアニメでも作っていればいい。主人公が朴念仁でも成立し、かつ見る人はそこに創作上の意味を見出さないから。

 

9話はカットが切り替わる度にオブジェクトが異次元ムーブをするなど、絵的にも不安定な部分が多々あった。それが、逆にひとつの救いだ。きっと、作る側は気の利いた言葉を後から補完するつもりであの言葉だけを仮置きしたものの、進行は想定以上の過酷さで容赦なく襲ってきて、仮置きの台詞を本番にする他なかったんだ。

飾った矢印やいろんな矢印を連ねて描きたかったけど、時間がないなら一本の矢印を引くしかない。そんな時間に追われての苦渋の選択で、朴念仁にとってヒトらしさを主張する最後の機会も、お話としての大事な見せ場も逃してしまったんだ。

 

……と、お茶を脇によけるのを見る前だったら、まだ思う余地もあったけど。最終回を知り、3回この話を見た今では、この話は作る側にとっても消化回、何一つ特筆すべき物語がないのはそもそも物語なんて構えたものを語るつもりがなかったのだと思っている。そうでなければあまりにも報われない。だれが? だれもが。